江戸の米蔵の歴史

江戸の米蔵の歴史





祖父・父と三代続く下町のお米屋に生まれた“渋谷誠”。母の田舎でもある米どころ山形県新庄でお米作りに触れるなど、子供の頃から生活の中にお米がある環境に育ちました。高校卒業後、都内の業務用のお米屋で修行を兼ねて営業とお米について学ぶ毎日を送り、その頃から今のお米業界に疑問を感じ、実家の「渋谷商店」を継ぐ事にもためらいがありました。その当時のお米業界(今もかな?)は品質追求と言うよりは利益追求、良い精米とは上がりのいい精米(60kgの玄米からなるべく多くの白米に精米する)を行っております。生産者が一生懸命育てたお米も十分に引き出すことなく、上がり重視での精米、それだけではなく単品銘柄での出荷は皆無の状態でした。(新聞やニースにもあった偽造表示は本当です)それが僕の知る限りほとんどの全ての販売店で行われていると思われます。そんな業界に嫌気がさしてはいましたが、2002年、業界の常識をくつがえすチャンスではと楽天に出店を決めました。そしてその産地その銘柄最高の一等米を厳選し、お米の本来持つ味を十二分に引き出す精米でお届けしようと努めております。現在のお米業界は低価格での価格競争がおき、安さばかりを追求する傾向にありますが、『江戸の米蔵』は品質を考え、本当のお米の味をお求めのあなただけにお米マイスター“渋谷誠”の一等米をお届けし続けたいと思います。








■戦前 一代目
一代目の勇吉は東京の渋谷区千駄ヶ谷で米穀店を営む渋谷家の六男として育ちます。 結婚を期に東京の新宿区方南町にて独立しお米屋を始めます。 太平洋戦争を生き延び戦地から戻った祖父は東京都荒川区南千住へ移り米穀店を再スタートさせます。 僕の記憶では大変真面目で口数が少なく頑固な祖父で怖かったイメージがありました。 しかし、母や祖母に話を聞くと、孫にはとても甘く可愛がってくれたようです。 母は僕をしかって逆に祖父に怒られるほどだったとか。。。晴れた休みの日には、よくバスに乗って浅草の花やしきに連れて行ってもらいました。 夕方になると私と一緒に相撲をテレビ観戦し晩酌するのが日課の祖父でした。
こちらの写真は母が渋谷家に嫁ぐときの様子。この当時はこのようにご近所にあいさつ回りをしていたようです。左上に見える電話の看板がある角が渋谷商店です。今もここにたち続けております。当時はここに父・母・祖父・祖母・兄弟と大人10人が一つ屋根の下に暮らしていたとか!もちろん食事は母が全部作り食べるのは最後だったらしいです。

■母 渋谷家へお嫁入り

■一代目と孫 お店の前にて

昭和43年三代目誕生。この頃になると仕事は二代目の父、渋谷光明が跡を継ぎ、家庭用のお米はもちろん業務用のお米も増え大変忙しかったそうです。お米以外にも缶詰・卵・味噌・漬物・調味料と色々取り扱っていたようです。この頃には一代目の祖父はもっぱら孫を可愛がってくれる毎日だったようです。祖父に抱かれている一番小さい子が私、三代目です。写真にあるようにお米以外の物も多く扱っていたのが判ります。それにしても缶詰が一杯あるな~。

二代目の父渋谷光明は一代目の祖父とは違いとても賑やかな人でした。 仕事も順調に行き大変多くのお客様がこの当時からお付き合いいただいたようです。 またそんな父は趣味も多彩で将棋・尺八・三味線・ダンス・民謡・ピアノ・登山と一度にいくつもの稽古を掛け持ちするなど、 とっても行動的な人でした。また友人も大変多く平日、日曜日に関係なく我が家には人が集まり、 賑やかな毎日でした。そんな父に振り回されて苦労している母を見て子供ながらに、 こんな大人にならないようにしなくてはと思ったものです。 今はこんな男になりたくて色々とチャレンジしています。 しかしこの大きな父を超える事は今だできずにいます。
そんな二代目から三代目に変わり、平成23年の夏。荒川区南千住から神楽坂そばの新宿区へ移転しました。


■二代目と三代目



農家の方が一年間丹精込めて作られたのが一等米です。その一等米を最高に美味しく精米しなくては申し訳ない。だからお米マイスター“渋谷誠”は産地・銘柄はもちろん季節や温度・湿気などで精米を変えて、その一等米の持つ美味しさを十二分に引き出すのです。『江戸の米蔵』では銘柄米は混ぜない!ブレンド米でも価格を下げるためのブレンドはしない!厳選された一等米しか使わない!丹精込めて作ってくれる農家さんのため、最高に美味しいお米を求めるあなたの為に絶対にゆずれないのです。
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